第2編 ―NHKでの経験

世の中の「真実」を伝えたい。NHK入局と番組制作の経験。そしてサラリーマンとしての苦悩。

― 大学を卒業してNHKに就職されたわけですが、なぜNHKを選んだんですか?

実は今だから言いますが、本当は記者、ジャーナリストになりたかったんです。記者として、報道に携わって、社会の在り方について問題を提起して、社会を良くしたい、という想いからです。
今ではちょっと信じられないかもしれないですけど、当時の大学には、若者が政治や社会のありかたについて真面目に考える風潮があったんです。特に私が勉強していた第二外国語「中国語」クラスにはそういう学生が多かった。
私も父親が政治家として世の中の問題に取り組んでいるのをずっと見てきたので、私は政治家にはならないけど、父とは違うやり方で社会に対して向き合いたいと思っていました。

そんなわけで、大学時代には「マスコミ研究会」を立ち上げて活動したし、実際に、新聞社や、NHKも記者採用の枠で採用試験に挑んだんです。
ところが、NHKに願書を出す際、私の申込書を受け取った人に「たのべくん、記者が取材したものを最後にまとめるのがディレクターだ。これからは映像の時代だよ。一緒に素晴らしい番組をつくって、人の心を動かそう」と言われてその気になってしまったんです。
その場で「記者」ではなく「番組ディレクター」の欄に◯をつけなおして申し込んでしまった。笑
その結果、番組ディレクターとして採用されたのです。

― なかなか珍しい、というか時代を感じさせるおおらかなエピソードですね。では、ディレクターとして番組制作にかかわっていくお仕事はたのべさんにとってどんなお仕事でしたか?

番組制作現場での一枚

これが、入って大失敗だと思うようなことの連続でした。映像制作の現場は、論理的な思考とは無縁で、私には映像制作のセンスがないんだということを毎日痛感させられる日々でした。
当時はなんでディレクターになったんだ、自分にはつくづく向いてない、と思ってました。

また、NHKでは番組制作の仕事以外に、総務部での仕事や、組織編成の仕事など、マネージメント業務もやることになりました。
それまでと違う現場に配属されることは最初は何もわからなくて大変なのですが、私は前の現場での肩書などに固執しないで、知らないことは勉強しようという姿勢で取り組むように心がけていました。
そうすると周りの人が教えてくれたりして、助けてくれるんですね。

それに、自分に課された仕事や責任から逃れたくない、という責任感がありました。
「人間到る処靑山(せいざん)あり」とは、ある時期に新しく配属された部署で出会った上司にかけてもらった言葉で、今でも覚えています。
今いる場所、その場所があなたの生きる場所なんだよ、ということを言ってもらったのだと思っています。
人に恵まれたということもありますが、今から考えると、巡り巡って色々な体験をしたことがその後にも活きていますし、サラリーマン人生の中で無駄なことは何もなかったと思っています。

― サラリーマンとしての経験は今、政治家を目指す上でどのように活きていますか?

同じ物事に対しても、鳥の目から俯瞰(ふかん)して見るとどう見えるか、蟻の目線ならどうか、子どもの目線ならどうか、など視線の違いを意識するようになったというのは大きいですね。
同じものごとでも、立場によっては見え方が全然違うということを学べたと思っています。
あと、失敗は引きずらないようになりましたね。笑
番組制作をしていて、取材先の人を怒らせて土下座して謝ったこともあります。

逆に良い思い出として今でも覚えているのは、盛岡の放送局にいたときにつくった、ある番組です。
知的障がい者の学校のラグビー部を取材してつくった番組でした。
ラグビーの「One for All, All for one」の精神、チームワークの精神はすごいですね。
部活の練習だけでなく、知的障がいを抱えた生徒さんたちが、就業体験先のクリーニング工場でお互いに協力しながら作業をする場面を取材して、生徒さんたちが成長していく姿に密着させてもらいました。

番組放映後、生徒さんと保護者さんたちが集まって再度上映会をやるということで、招いてもらったのですが、生徒さんも保護者さんもみんな涙を流して番組をみてくれていた。
自分がつくった番組が人に感動を与えることができた、というのを実感して、私まで涙が止まりませんでした。

第1編 -幼少期と学生時代  第3編(最終編)-そして県政刷新