全ての人が人生を楽しめる、そんな栃木県にしたいんだよ
―たのべ隆男が目指す、「未来とちぎ」構想
Interview —
たのべ隆男、60歳。
宇都宮高校、東京大学法学部、NHK宇都宮支局長。眩しいほど立派な経歴だ。
順風満帆のエリート街道を歩んできたように思われがちなたのべは、会社員人生の最終盤と、そして老後を投げ売って立ち上がった。
今、栃木をみる田野辺の目に映っているものは何か。
生い立ちから、学生時代、職業人として経験してきたこと、そして、今、なぜ「県政」なのか。
たのべの想いに迫った。
第1編 ―幼少期と学生時代
― たのべさん、今日はよろしくお願いします。まずは、出身、育った家庭環境を教えてください。
はい、こんにちは。今日はよろしくお願いします。
私は、芳賀町稲毛田地区で生まれました。田舎です。八溝山地の一角の里山です。
田野辺という名字はその地区の10km東にある市貝町田野辺という地名。先祖代々栃木に住んできました。
父は町会議員、県会議員、町長をやった政治家でした。しかし政治家としての父よりも、印象深いのは「田野辺運送店」社長としてのイメージです。
私は小さい頃から親父の運転するトラックの助手席に乗せて外に連れていかれたり、日曜日になると政治家の仕事で出払う親父のかわりに運送店の電話番をしたりしてきました。父は仕事に対してとても厳しい人でした。
兄弟は男三人でした。上に兄、下に弟、私は真ん中。男3人ですからね、こどものころは食事になるとおかずをとりあった記憶があります。
近所にも子どもが多かったので、缶けりなどをしてよく遊んだものです。
「神童」と呼ばれるほど勉強が出来た少年時代、山岳部で星空に心動かされた高校時代、そして東京大学へ。
― 子どもの頃の記憶でなにか印象的なものはありますか?
当時は塾もなくて、とにかく山や川で遊びました。自然の中で育ったといえます。今でも自然に行くと落ち着くのは幼少期の体験のせいでしょうね。
昔は本当に自然があったんです。川遊びをしたり、山だってもっと奥深かった。
そんな環境で育ちましたので、小さいころは、芳賀町が世界の中心だと思っていました。笑
― 芳賀町の中学校から宇都宮高校に進学されたわけですが、小さい頃から勉強を頑張ったんですか?
嫌味に聞こえてしまうかもしれないけど、自分ではそんなに勉強したつもりはありません。
当時は塾もないような時代でした。宿題だってほとんどなかった。
毎日、外で友達と遊んで、家に帰ってからは本を読んだり、テレビを見たりしました。
本はこどものころから乱読するのが習慣で、漫画も手塚治虫が好きでした。
本では、家に徳川家康全集や、世界名作文学全集があって読んだのを覚えています。
たのべは種子条例制定を公約として訴えるなど、農業への思い入れも強い。
その背景には自然の中で育った少年時代の原体験がある。
― 宇都宮高校時代の思い出は?
宇都宮高校に入学してからは、毎朝6時に家出て自転車と電車で2時間以上かけて通学してました。朝は早いし、帰りは芳賀町につく頃にはもう真っ暗。これでは余りに大変だということで、入学してから数ヶ月して、宇都宮高校の近くに下宿することにしました。
下宿して高校に通う人は当時でも珍しかったように覚えています。
部活は、山岳部に入りました。今でも覚えていますが、地理の小林先生という先生の授業がとても面白かった。地理は「世界の成り立ちを学ぶんだ」という言葉に感化され、そのまま先生の勧めるまま山岳部に入りました。
高校で山岳部に入ったことは大人になるまでの人生の中でもっとも正解だったと思う選択の一つですね。今から高校時代に戻れるとてももう一回入りたいくらい。
なにが良いって、雪山に登ると、単純に綺麗なんですよ。地球ってこんなに綺麗なのか、と息を飲むくらい綺麗なんです。夜は星空。すごいですよ。こんなに世の中に星って多いのか、って言葉を失って見上げていると、流れ星がヒューヒュー飛んでいく。翌朝また起きて歩き出すと朝日がのぼって、今度は樹氷がキラキラ。神様はきれいなものをつくったなぁ、と山に登るたびに思います。
山岳部では、山から下りることを「外界に下りる」と言っていました。それだけ山は自分が自然に生かされていることを感じさせる特別な場所でした。
こうして都会に生きているとついつい忘れがちですが、我々は普段は、「外界」で生きているのかもしれませんね。
大人になってからは登山はハイキング程度になりました。
栃木は尚仁沢周辺のトレッキング。奥鬼怒もおもしろいですね。奥白根山も登ったなあ。栃木は本当にいい山がたくさんあるんですよ。
インタビューはたのべが代表をつとめる無所属県民党の政治団体「新風とちぎ」宇都宮事務所で行われた。
― 大学時代の思い出は?
高校では勉強も頑張った記憶があります。運良く東大に入ることが出来ましたので、入学するまでは「俺も、勉強頑張ったな」と思っていた節もありました。
ところが東大に入るとまわりは全員もっと、優秀なんですよね。優秀、というかなんていうか、「しゃかしゃか」している。「しゃかしゃか」というのは伝わらないかもしれないけど、要はみんな「ちょべちょべ」(注:要領がよい、という意味の栃木弁)しているんですよね。それに比べて僕なんかは、栃木の田舎から初めて東京に来た「お上りさん」状態。
大学に入ってからは再び、勉強より読書と映画三昧の毎日でした。あの頃は大学も牧歌的でしたね。法学部に入ったけど、法律はつまらなくて仕方なかった。なんていうか、テクニックに走るイメージ。
私は、今から考えると思い上がりかもしれないけど、なんていうか、「真理を究めたい」という思いがあったんですね。なので、心理学、社会学、経済学、色々な本を読みました。当時の私にとっては、法律学よりは経済学の方が世の中の仕組みを分析できるという考えでした。
「マスコミ研究会」というサークルを仲間といっしょに立ち上げて、夜間中学の視察をみんなでしました。今でも鮮明に覚えています。荒川の中学校。
当時はまだ終戦から20数年しか経っていないから、中国から引き揚げてきた人、いわゆる孤児だった人、など、とにかく戦争で苦労された方々がたくさん学びに来ていた。
みんな大人になってからも、それまでに勉強できなかった分をなんとか取り戻そうと必死に勉強している姿をみて、学びたいときに学べた自分がいかに幸せだったかを感じました。
実は、宇都宮でも夜間中学をつくろうという運動があるんです。私は、宇都宮だけでなく、夜間中学を栃木県内で他の地域にもにつくりたいと思っています。
いつになっても学べる、学び直しの場が必要です。
というのも、世の中には、どうしても通常の学校教育から「はじき出され」てしまう人がいます。数年前に売れた本で『ケーキの切れない非行少年たち』という本がありました。学校文化や教育に馴染めない人はどうしても一定数いて、そういう人達は今の画一的な教育システムだと、「はじき出され」、そして非行に走ってしまったりする。
今の学校制度や教育システムは、残念ながら、一部の出来ない子を切り捨てて、他の出来る子たちを進めることが前提になってしまっている。
そんな教育ではない、全ての子どもの個性と創造性をその子に合わせて伸ばしてあげるような教育を栃木では実現したいんです。
まずは、今までの学校からはじき出されてしまった人たちのために、夜間中学を整えて、教育を取り戻したい。このことは、はじき出された人たちだけではなく、ひいては社会全体のためになることだと私は思っています。